はじめに

2025年3月10日(月)日本福音ルーテル教会事務局長の李明生先生より太田一彦先生の訃報メールが届きました。

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日本福音ルーテル教会関係者各位

主のみ名を讃美いたします。

かねてより病気(心臓病)療養中でありました定年教師である太田一彦牧師が、先週病状が急変され、3月4日(火)午後8:16に主のもとに召されたとのご連絡をご家族より頂きました。(享年71歳)

心から哀悼の意を表するとともに、神さまだけが与えることのできる慰めがご家族の上に豊かにありますことを心からお祈り申し上げます。

なおご葬儀は3月8日(土)にご家族のみで、太田一彦牧師の義兄にあたられる関川泰寛牧師の司式により日本基督教団大森めぐみ教会にて行わたとのことです。
ご家族より、「事後の報告となりましたことをお許しください。生前の主にあるお交わりに心より感謝申し上げます。」とのメッセージを頂いております。

またご家族より、お花料・供花・弔電などのご厚志については謹んで辞退いたします、とのことです。

主にありて 祈りつつ

日本福音ルーテル教会
事務局長 李明生
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太田一彦牧師は、仙台教会が牧師としての最初の赴任地であり、また、最後の赴任地ともなりました。わたしが日本福音ルーテル鶴ケ谷教会に通い始めたころの仙台教会の牧師であり、後年、仙台教会に転籍した後の教会の牧師でもありました。わたしより3歳上で、亡くなった兄と同い年でありましたから密かに兄のように慕っていました。我が家で双子が生まれた同時期に、同じ国立病院で、太田先生と奥様にも双子のお子様が生まれました。三鷹教会に転任なさる直前の1月に、わたしは末の息子を亡くしました際、共に泣いてくださったことは忘れることがありません。毎週の礼拝の前に、わたしのピントの外れた質問に整った導きを与えてくださったものでした。二人の娘の結婚式の司式をしていただいたことも思い出となっています。
2021年1月に心臓の病でオープン病院に入院なさり、2021年1月24日 顕現節第3主日の礼拝以降は、8月に高村牧師が兼任となるまでは信徒礼拝となりました。2021年7月25日 聖霊降臨後第9主日を最後の礼拝説教となり、7月末をもって牧師を退職なさったのでした。その後、静岡に転居され、また、その後、東京に戻られたとお聞きしていました。何分、心臓に大きな御病気を負っておられましたので、心配しておりましたが、まだこれからというときに天に召されたのです。
以下に、僅かですが、太田先生にかかわる主な記録を残します。いまは、天にて安らぎの時を持っておられることを信じ、同時に、再開の希望を信仰をとおして与えられんことを祈ります。

文責 長島慎二

第1期赴任

1985.4-1992.3

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1985年4月 太田牧師着任
◇1985年度牧師報告の中で教会について次のように記しておられます。

初めての任地に赴くに際して、私は神が人間に語り給うが故に聴き、神が語り給うことを聴くという、この一事によって教会は基礎づけられ、この一事のみが教会を教会たらしめるという一点を信念として携えてまいりました。......

教会は神が召し、礼拝がなされ、神がつかわすということの間に生きる動的な群れである。
私達の救いが神の選びに基づきイエスキリストにあって生きることであるとすればそれは私達がそのような教会に生きることによってのみ経験される。

教会は何よりもまず神の言葉の群れの共同体であり、礼拝共同体であり、宣教の共同体であり他者に仕える共同体と言える。教会がそのような共同体であるとき、それは真の信仰と希望と愛の共同体となる。

◇宣教について
私達の手で企て作り出した交わりによって仲間を獲得しようとすることは真の宣教ではない、私達の群れが神の言葉に聴き、神の主権と恵みを証する群れである時、神の言葉自身が宣教の主体となるのです。したがって私達が神の言葉を聴く時に私達は真の宣教の群れ、宣教の共同体となることだと思います。各自が神の言葉を聴き、神の主権と恵みを証して生きることにおいて、仙台教会の宣教は真に遂行されていくものと信じています。

◇平和主日礼拝1985年8月18日
平和宣言をめぐり懇談し、四週の討論の後公にする。
私達は神の主権を証する群れとして、国家権力が自らの主権を絶対化し、言わば自らを神として私達に屈服を迫り始めている今、断じて"否"を言わなければならない。

◇鶴ヶ谷教会との共なる歩みが85年度より始められた。
平和宣言、夕礼拝、合同修養会7月27ー28日鬼首高原にて合同婦人会クリスマス礼拝12月12日

神によって起こされた「人は信仰によってのみ義とされる」という真理の下に立つ二つのルーテル教会が、この仙台の地にあってその真理を証するためには二つの教会の"共働"が不可欠であると思う。
信仰をあるいは生を真に分かち合うという意味における真の交わりを、さらに続けていかねばならないと思います。
東北伝道という夢が二つの教会の共通の夢として生じ、やがてこの地における神の宣教の働きに私達が参加させられる喜びにあずかると思うのです。

◇1986年の主題「神の言葉の群」
私達の群れが真に生かされるのは、神様の語り給うみ言葉を私達が真に聴くことによるのであり、そのことが起こるとき私達の群れは真に信 仰と愛と希望の共同体としてこの世に生かさる。
私達が真に神様の言葉を聴くとき、私達は神様から力を与えられ、この世に力強く神様の主権と恵みを証することができるのです。

◇1987年の主題「証言する群」
牧師報告より
1987年は仙台教会にとって一つの節目であった。この地に長沼先生によってみ言葉の種がまかれて30年であった。私たちはクリスマスに長沼先生をお迎えして、このことを憶えて共に礼拝を守った。仙台教会から生まれていった鶴ヶ谷教会もこの年に会堂が与えられた。若いルティオ先生が着任されたことで特伝を始として若者を中心に多くの人が教会の門をくぐり、またこれまで東北大YMCA、アムネスティや平和事務所等様々なグループが教会で勉強会や集会を開くようになった。財政面や統計面でも安定そして成長の兆しが確かなものになってきたように思われる。私達が厳しい状況の中にも希望をもってkの節目の年を迎えたのは私達の小さな群が歩みを続ける中で、いつも神様の言葉に聴く"神の群"でありたいと心から欲してきたからと信じています。

第2期赴任

2015.4-2021.7

主日礼拝(外部リンク)
church_calendar2021
church_calendar2020
church_calendar2019
church_calendar2018
church_calendar2017
church_calendar2016
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◇2018年5月13(日)八嶋拓・(長島)英子結婚式
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◇2019年6月9日(日)都築涼・(長島)華子結婚式
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◇2016年1月31日の仙台教会総会における牧師報告より
2015年4月1日付けで、再びこの仙台教会に31年ぶりに赴任することができましたことを主のお導きと心から感謝しております。私の牧師としての最初の任地が仙台教会でした。そして再び仙台教会から招聘を賜り、私の牧師人生の最初と最後の時期をこの仙台の地で過ごすことになり、こうして皆様と再会できましたことは、主の特別の賜物とただ感謝するばかりです。今回の招聘が鶴ヶ谷教会との兼任とは言え、同じ教会から2度の招聘を受け、赴任するケースは、留学や事務局への転出以外では、ルーテル教会では初めてのことだと思います。
さて、私の喜びは旧知の皆様と再会し、また私が離任後に仙台教会の会員となられた方々と出会うことができたということは勿論ですが、そればかりではありません。仙台教会が困難な時期を乗り越え、一人一人の大きなご奉仕により、礼拝を第一として、礼拝共同体として、しっかりとした歩みを続けてこられた姿に接することができたことが、私の一番大きな喜びなのです。なぜなら教会の本質は礼拝共同体だからです。つまり、教会の本質に生きてこられた教会に、またそこに連なる皆様に再び出会えることの喜びです。教会は決してクラブではありません。キリストに従って生きる者の群れ、私たちはキリストによって贖われ、信仰によって生きるキリストの弟子です。そこから、私たちは宣教共同体として、キリストご自身からそれぞれの生きる場へと遣わされていくのです。
来年は宗教改革500年を迎えます。「キリスト者は、キリストと隣人のために生きる。信仰によってキリストに生き、愛によって隣人に生きる。」と『キリスト者の自由』でルターが述べているように、また、ガラテヤ書6:2でパウロが「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそキリストの律法を全うすることになるのです。」と述べているように、そのような者として、そのような者の群れとして、共に歩んで行きましょう。


◇2017年1月29日の仙台教会総会における牧師報告より
「神の言葉が、教会の教えと信仰告白を確立する。それは天使であっても覆すことができない。」1537年 シュマルカルデン条項 ルター。
仙台教会に赴任して2年目の2016年も、一年間を通して礼拝を守ることができ、感謝しています。主は私たちのような小さな群れにも礼拝を備えてくださり、御言葉を語り続けてくださっている事実を共に経験することができ、あらためて畏れつつ神の恵みに皆様と共に感謝したいと思います。
教会という共同体の一致の根拠は、そこに集う人々の価値観や生活様式、社会層の一致にあるのではありません。一致の根拠は礼拝であり、礼拝の直中に現在するイエス・キリストを救い主と告白する信仰にあります。更に言うなら、教会の一致の根拠は、説教と聖餐の礼典にあります。御言葉の説教と聖餐が正しく執行されて、それは教会の礼拝となるのです(アウグスブルク信仰告白第7条)。
私たち仙台教会が、立つべきところはここにあります。(私はここに立っています。私はほかになし得ません。Hier stehe ich,ich kann nicht anders.1521年 ヴォルムスの国会喚問)その意味でこの一年がなによりも説教と聖餐が大切にされた中での、いや、そこに集中した教会の、また私たち一人一人の歩みであったことは、感謝です。そして、それが私たちの群れに出来事として成起していることは、ただ神の恵みそのものなのだと思います。
今年は宗教改革500年の年です。世界中でそれを想起した計画の準備が進んでいますし、私たち日本福音ルーテル教会でも昨年から具体的な準備が進められてきました(掲示板の予定表参照)。私たちもできる範囲でそれらとコミットしながら、私たちの小さな群れもルーテル教会であり、私たち一人一人がそのルーテル教会員であることを心に刻みたいと思います。そして、ルターが指し示した福音の真理に捉えられ、生かされていきたいと思います。神の言葉によって信仰の一年を歩んで行きたいと思います。
なぜなら[草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることはない。」からです。ペテロI1:24b、23a


◇2018年1月28日の仙台教会総会における牧師報告より
昨年は宗教改革5百年の記念すべき年でした。この「記念する」という言葉はギリシャ語でアナムネーシス、聖書の中で重要な場面で使われている言葉です。それは聖餐式、その設定辞の中で使われている言葉です。聖餐式が単にキリストを思い出すという意味ではなく、現在するキリスト、そのリアルプレゼンスに捉えられ、生かされるという出来事であるように、宗教改革5百年を記念するということも、私たちが単にルターを、宗教改革を思い出すということでないことは明らかです。アナムネーシスとはただ過去を思い出すことではないのです。アナムネーシスとはその出来事に私たちが生かされることに他なりません。従って私たちは宗教改革5百1年目に宗教改革の本質、即ち信仰義認に生かされるという事なのです。ルターの信仰義認の真理に私たちが生かされることなのです。
では生かされるとはどういう事なのでしょうか。私たちは主によって集められた者の群れです。私たちは自らの理由によって集まったのではなく、主に信仰を与えられ、この仙台教会に集められている群れ、主の羊の群れです。主を信じる信仰の群れです。主は言われました「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。私は彼らを知っており私に従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、誰も彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(ヨハネによる福音書10:27、28)。
私たちは主の御声を聞き分け、主のみ言葉を聴く者の群れです。ヨハネは「神に属する者は神の言葉を聞く」(ヨハネによる福音書8:47)と語っています。パウロも「信仰は聴くことによる」(ローマの信徒への手紙10:17)と語っています。私たちは神の言葉の群れ、神の言葉を聴く者の群れなのです。礼拝に集められ、礼拝で神の言葉を聴き、神の言葉に従う群れ、神の言葉に養われ、導かれる者の群れ、それが私たちなのです。私たちは他の何者でもないのです。


◇2019年1月27日の仙台教会総会における牧師報告より
教会は神の言葉の上に建てられます。教会は神の言葉の外にはその基盤を持ちません。キリスト者とはそのことを知っている者のことです。教会が神の言葉以外のものから、即ち人間の思惑や構想から何かを指示されたり定められたりするなら、そこに真の教会を見出すことはできません。それは真の教会には成り得ません。神の言葉は、教会が語るから神の言葉なのではありません。神の言葉が語られている事実が教会を教会として立たせるのです。神の言葉は教会によって造られたものではなく、教会が神の言葉によって造られるのです。教会の全生命と本質とは神の言葉の中にあるのです。そしてまさにこの事が教会の進路を決定します。教会の進むべき道を人間が考えつくことは出来ないし、誰も自分の好みに合わせて教会の進路を決定することはできません。神の言葉こそが教会の存在を指し示すのです。神の言葉のないところではいかなる一致も存在しないでしょう。
しかし、これらの事は私たちを窮屈に縛り付け、自由を奪うものではありません。むしろ逆であって、私たちが神の言葉を聴き、従う神の言葉の民であるとき、私たちの群れは何者にも脅かされることのない真の自由を得ることができるのです。主は言われました。「私の言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」ヨハネ8:31,32。私たちはこのとき、この神の与えてくださる恵みに対して神を賛美し、神に御栄を帰することに心を合わせることの出来る民とされるのです。これこそ真の一致であり、私たちが、立つべきところはここにあります。その意味でこの一年がただただ説教と聖餐に集中した教会の、また私たち一人一人の歩みであったことは感謝です。そして、それが私たちの群れに出来事として成起していることは、ただ神の恵みそのものなのだと思います。
昨年と同じルターの言葉を掲げさせていただきます。
「神の言葉が、教会の教えと信仰告白を確立する。それは天使であっても覆すことができない。」1537年 シュマルカルデン条項 ルター。
「私はここに立っています。私はほかに成し得ません。Hier stehe ich,ich kann nicht anders.」1521年 ヴォルムスの国会喚問、ルター。
そして詩編の言葉「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという歓び」
詩編133編1節 
これらの三つの言葉が上記の文章の骨格にあります。


◇2020年1月26日の仙台教会総会における牧師報告より
Sola gratia・恵みのみ。allein im Wort・神の言葉においてのみ。

仙台教会に赴任して5年の歳月が過ぎました。2019年も、一年間を通して礼拝を共に守ることができたことを感謝しています。主は私たちのような小さな群れにも礼拝を備えてくださり、御言葉を語り続けてくださっている事実を共に経験することができ、改めて神の恵みに皆様と共に感謝したいと思います。

今、恵みと申しました。ルターの宗教改革の根本的洞察は、イエス・キリストに於ける神の語りかけ・神の言葉は、ただ神の恵みから「のみ」起こるというものでした。
神は私たちの功績に応えて私たちに恵みを与えなければならない借りを私たちに負っているのではありません。私たちが受けるのに不相応であるのに、神がそれを私たちに与えてくださる場合にのみ、恵みは「恵み」だからです。パウロは言っています。「もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ恵みはもはや恵みでなくなります。」ロマ11:6。パウロの復活の主との出会いによる確信です。
そしてパウロのこの復活の主との出会いの経験から十字架を理解するのです。それは主の十字架の死は決して神から遠く隔たった場所ではなく、人間に対する神の近さが示される場所となったのです。そして私は、もし神がそのような仕方で私たちの近くにおられるとすれば、私たちが苦しむこと、そして死そのものも、今や、神が常に近くにおられる場所として理解されなければならないのだと思います。私たちは死においても全く神の恵みにより頼むのです。そして神は愛の故に私たちを離さないのです。恵みの故にです。恵みという言葉は、元来「自分を傾ける」ということを意味しています。神が人間に恵み深いということは、神が私たちに愛をもってご自分を傾けてくださるということなのです。そしてこの愛はまったく神御自身の中に根拠を持っているのです。とすれば 永遠の命も神の恵みなのであると思います。

ハイデルベルク信仰問答の第一問「問い 生きるにしても死ぬにしても、あなたの唯一の慰めは何ですか。答 私が生きるにしても死ぬにしても、身も心も私のものではなく、私の真実の救い主イエス・キリストのものだということです。」

この信仰告白の言葉に今年も生きていきたいと思います。


◇2021年1月31日の仙台教会総会における牧師報告より
2020年の教会の歩みは、コロナ禍の中での歩みでした。重苦しい空気が世界を覆った一年でした。パンデミックは世界に深刻な問いを投げかけました。今まで隠れていた問題が顕在化したり、分断が生じたり、これらが世界を尚一層重苦しくしています。
そうした中でルーテル教会もまた苦しんだ一年でした。礼拝を行わないというかつて経験したことのない状況に身を置かざるを得なかったからです。しかし、教会は希望を見失うことはありませんでした。なぜなら私たちには神の言葉が与えられているからです。神の言葉は私たちにとって希望そのものだからです。
何年か前にも申しましたが、教会は神の言葉の上に建てられます。教会は神の言葉の外にはその基盤を持ちません。神の言葉は、教会が語るから神の言葉なのではありません。神の言葉が語られている事実が教会を教会として立たせるのです。神の言葉は教会によって造られたものではなく、教会が神の言葉によって造られるのです。教会の全生命と本質は神の言葉の中にあるのです。そして教会の上に御言葉の権威があるからこそ、教会は御言葉によってたえず改革されていく存在なのです。まさにこの事が教会の進路を決定します。逆から言うなら教会の進むべき道を人間が考えつくことはできないし、誰も自分の都合に合わせて教会の進路を決定することはできません。神の言葉のないところではいかなる改革も一致も存在しないでしょう。ではその神の言葉が語られる「場」は何か。それは礼拝です。その礼拝ができない経験を私たちは初めて経験したのです。逆から言えば今こそ、礼拝について皆でもう一度考え、再確認することが今年の私たちの課題となるのではないでしょうか。
礼拝をドイツ語でGottesdienstと言います。これはGottes「神の」とdienst「奉仕」という語から成っています。そう、礼拝は神ご自身の私たちへの奉仕、礼拝は神が私たちのために備えてくださっている出来事なのです。つまり私たちをご自分の愛の中に生かすために神が備えてくださっているのが礼拝です。神はその礼拝で御言葉(説教)と礼典(洗礼と聖餐式)によって、その罪を許し、私たちを永遠の命に生きるものとしてくださるのです。神の守りと、支え、導き、私たちがどのような状況にあろうとも生きる力を「恵み」として与えてくださる「時」と「場」が礼拝なのです。そしてその恵みに私たちが応えてそれぞれの場へと遣わされていく力と使命が与えられるのが礼拝なのだと思います。今年もコロナ禍が続くと思われますが、その中で礼拝を通して神の恵みを経験していく一年にしたいと思います。なぜなら経験とは、その中から新たに私が生まれてくるものであり、この経験を通して私たちは神の現実Gottes Wi?rklichkeitを生きることができるようになるからです。

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◇礼拝2021年1月17日事の始まり
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◇礼拝2021年1月10日主の洗礼威
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◇礼拝2021年1月3日純真無垢に
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最後の礼拝

◇2021年7月25日(日)仙台教会最後の礼拝
聖霊降臨後第9主日
説教:「いのちの交差」太田一彦牧師
奏楽:太田あつ子
聖書:哀3:22-33・Ⅱコリ8:1-15・マコ5:21-43
讃美歌;191番・332番・539番
礼拝音声:MP3
写真は以下をクリックして、大きさサイズを表示してから右クリックでダウンロードができます。

思い出コメント


日本福音ルーテル教会の牧師として、その人生をみ言葉を伝えることにお献げになった太田一彦牧師が天に召されたとの報を受け、残されたご家族に心より哀悼の意を表します。

太田一彦牧師は、なによりも牧師でした。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、み言葉とその真理を伝えることに命を削ったのでした。太田一彦牧師が初めて仙台に遣わされたときの覚悟を示す言葉、「初めての任地に赴くに際して、私は神が人間に語り給うが故に聴き、神が語り給うことを聴くという、この一事によって教会は基礎づけられ、この一事のみが教会を教会たらしめるという一点を信念として携えてまいりました。」の精神は、2021年に牧師としての務めを終える時まで一貫して、太田一彦牧師の土台となっていたに違いないということは言葉を重ねる必要のないことです。

わたしたちは、礼拝説教を通して伝えられるみ言葉に心を揺り動かされ、力を与えられてそれぞれが与えられた馳せ場へ送り出されて行くのでした。「教会は何よりもまず神の言葉の群れの共同体であり、礼拝共同体であり、宣教の共同体であり他者に仕える共同体と言える。教会がそのような共同体であるとき、それは真の信仰と希望と愛の共同体となる。」との教会というものの正しい在り方は仙台教会の確固とした立ち処となりました。

また、「私達の手で企て作り出した交わりによって仲間を獲得しようとすることは真の宣教ではない、私達の群れが神の言葉に聴き、神の主権と恵みを証する群れである時、神の言葉自身が宣教の主体となるのです。したがって私達が神の言葉を聴く時に私達は真の宣教の群れ、宣教の共同体となることだと思います。各自が神の言葉を聴き、神の主権と恵みを証して生きることにおいて、仙台教会の宣教は真に遂行されていくものと信じています。」との勧めは、ともすれば、この世的な宣教を思い浮かべ、現実の仙台教会の状況に不安を覚えるわたしを励まし、実際に、仙台教会で毎週の礼拝がなされてきたことに、神の主権と恵みを確認するものでした。

太田一彦牧師は、個人的には、このWebサイトの冒頭にも記したように、密かに兄と思い接してきました。また、牧師であると同時に、むしろそれ以上に、信仰の友であったということができます。元は熱心な仏教徒であり、30歳を超えてから教会の門を潜ったわたしには、真理を渇望する津波のような思いでありながら、実際には浅く稚拙な神学的理解を毎週の礼拝前の短い時間に、太田一彦牧師にぶつけたのでした。信仰者の人生において、信仰の友ほど大切なものはありません。わたしが鶴ケ谷教会で共に求道し、共に洗礼を受けてキリスト者になった、現在は、日本福音ルーテル栄光教会の牧師をしている伊藤節彦牧師と共に、わたしにとってかけがえのない信仰の友であったのです。今は、語り合うことができなくなりましたが、再会の希望をもって残りの人生を歩んで行きたいと思います。

最後に、わたしと太田一彦牧師が共に好きであったみ言葉を記したいと思います。


「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マルコ13:31)

長島慎二